本プロジェクトでは、IKKT行列模型を用いることにより、第一原理に基づいて超弦理論を研究します。これは、これまで広く行われてきた超弦理論の研究とは大きく異なります。従来の超弦理論の定式化はいわゆる摂動論に基づいており、摂動展開の出発点として、一定の背景(理論の古典解)を仮定します。ところが、摂動論の範囲内では整合性をもった背景が無数に存在しており、それ故、このような方法では何かを予言することは事実上不可能でした。これに対して、IKKT行列模型では、背景自体が理論の力学的性質で決定されます。このプロジェクトでは、格子QCDの専門家とも連携することにより、IKKT行列模型の大規模計算を実行します。私たちの主たる目標は、インフレーション宇宙を微視的な立場から理解すること、および、計算で得られた結果を宇宙背景輻射などの観測データに照らして検証することです。さらに同様の考えを応用して、ブラックホールの内部構造の研究も平行して行います。
本プロジェクトのもう一つの重要なテーマは、QCDの格子定式化の方法を有限密度領域にまで拡張することです。これはいわゆる「符号問題」のために、極めて難しいということが知られています。「符号問題」は、有限密度下で、クォーク・反クォーク対による真空分極効果を取り入れる際に起こります。この問題の有望な解決策として「複素ランジュバン法」と呼ばれるアプローチが、最近大きな注目を集めています。我々は、一般化されたゲージ・クーリングなどの新しいテクニックを用いることにより、この方法をさらに発展させ、QCDの相図における興味深いパラメタ領域の研究を目指します。
これら2つの研究テーマは一見かけ離れているようにも見えますが、実は方法論の上で密接に関連しており、両者の間では様々な相互交流が期待されます。2つのテーマに共通する精神は、「素粒子物理のフロンティアを切り拓くには、第一原理計算が不可欠だ」ということです。以下では、それぞれのテーマについて、もう少し詳しくご説明いたします。
このプロジェクトで研究する模型は、IKKT行列模型と呼ばれるもので、 1996年に石橋・川合・北澤・土屋(Nucl.Phys. B498 (1997) 467-491, arXiv:hep-th/9612115, KEK-TH-503)が超弦理論の非摂動的定式化として提案したものです。実は、摂動論を超える形で弦理論を定式化するのに行列模型が使えるという考えは古くからあり、70年代にまで遡ります。1974年、トホーフト('t Hooft)は、行列模型から弦の世界面が自然に表れるということに気づきました。この考えを拡張することにより、90年代初頭には簡単な行列模型が低次元のボゾニックな弦理論を非摂動的に記述していることが示されました。IKKT行列模型は、そのような定式化を10次元の超弦理論に拡張したものと見なすことができます。最も重要なことは、この理論は量子重力理論として整合性を持ったものと考えられることであり、実際、IKKT行列模型は、背景となる時空自体が力学的に決定されるという望ましい特徴を備えていることです。従って、時空の次元さえも、この模型を研究することにより予言できることになります。
時空の次元を予言する問題には、多くの研究者が取り組みました。この目的で、長い間ユークリッド型のIKKT模型が研究されてきました。この場合、時空はユークリッド的であると仮定され、時間と空間の間には違いがありません。そのようなユークリッド的な時空は、場の量子論を非摂動的に定式化するのに、広く用いられているものですが、量子重力を定式化するのにも使えるかどうかは、微妙であることが知られています。実際、ユークリッド型のIKKT模型から現れる背景時空は4次元ではなく3次元しか持たないことや、その3次元の広がりが残りの7次元の広がりに比べて、高々5から6倍程度しかないことがわかりました。(Jun Nishimura, Toshiyuki Okubo, Fumihiko Sugino (JHEP 1110 (2011) 135, arXiv:1108.1293 [hep-th], KEK-TH-1483, OIQP-11-06)
これらの理由から、2011年にはローレンツ型のIKKT模型がSang-Woo Kim, Jun Nishimura and Asato Tsuchiya (Phys.Rev.Lett. 108 (2012) 011601, arXiv:1108.1540 [hep-th], KEK-TH-1484, OU-HET-720-2011)によって調べられました。この場合、ユークリッド型の模型と異なり、時間と空間は識別可能な概念となっており、実際、ローレンツ型の模型のシミュレーションにより生成された行列の配位から、空間の時間発展を引き出すことができます。驚くべきことに、このような計算の結果、(3+1)次元の膨張宇宙が力学的に現れることがわかりました。これは、模型の持つ9次元の回転対称性が3次元の回転対称性にまで自発的に壊れていることを意味しており、極めて非自明な結果です。言い換えると、行列模型を用いた超弦理論の定式化は、我々の宇宙の持つ時空次元を正しく予言しているように見える、ということです。
それ以来、この模型を様々な形で簡単化した場合について、宇宙の膨張のしかたが調べられてきました。これらの結果を総合すると、ローレンツ型のIKKT行列模型では、インフレーション宇宙に類似した指数関数的膨張が初期に起こり、その後膨張のしかたがベキ則に転じること、そのベキ則が輻射優勢期のFriedmann-Robertson-Walker宇宙に類似していることが示唆されました。本プロジェクトの目標の一つは、ローレンツ型IKKT模型に対するこのような予想を、簡単化を一切せずに調べることです。我々はまた、相関関数を測定することにより、密度ゆらぎのパワースペクトルが予想どおりに再現できるかどうかも、明らかにすることを目指します。
量子色力学(QCD)の格子定式化は、クォークとグルーオンの間の強い相互作用にまつわる様々な現象を研究する上で、極めて大きな成功をおさめてきました。例えば、クォークの閉じ込めやカイラル対称性の自発的破れといったQCDの真空に関する基本的な性質は、格子QCDに基づく第一原理計算によって理解されました。一方で、有限密度におけるQCDの性質については、依然として理解が進んでいない状況です。簡単化した模型や粗っぽい近似に基づく様々な興味深い予想がなされているにもかかわらず、第一原理に基づく研究は、今のところ低密度領域に限られています。
有限密度における格子QCD研究を阻む技術的問題は、いわゆる符号問題と呼ばれるものです。この問題は、理論を定義する経路積分の被積分関数が複素になるため、その位相が揺らぐことによって激しい相殺が起こることによって生じます。これとは対照的に、ゼロ密度では被積分関数が非負の実数であるため、"importance sampling"の考え方がそのまま適用できる状況になっています。複素ランジュバン法は、この問題を回避する有望なアプローチであり、力学変数を複素化して、仮想的な時間発展を表すランジュバン方程式を解くというものです。ここで、力学変数の様々な関数を正則な形で拡張することが重要になります。もともとの経路積分定式化と等価になる条件が2011年に議論されてから、格子QCDの分野で大きな注目を集めるようになり、2014年には高温領域において有限密度QCDへの適用が成功しています。果して興味深い低温領域を、現実的な軽いクォークを用いて扱えるかどうかは、現在世界中で多くの研究グループが追究しているところです。
私たちのプロジェクトでは、有限密度QCDの複素ランジュバン・シミュレーションを行います。これまでに発表した論文の一つ(Keitaro Nagata, Jun Nishimura, Shinji Shimasaki, arXiv:1604.07717[hep-lat], KEK-TH-1854, KEK-CP-322)では、興味のあるパラメタ領域で起こる技術的な問題を回避するために、一般化されたゲージ・クーリングと呼ばれる新しいテクニックを用いることを提案しました。このテクニックは簡単化した模型でテストされ、結果は極めて有望です。このように複素ランジュバン法を発展させることにより、有限密度QCDの興味深いパラメタ領域の研究を目指しています。
Last Update on May 12, 2016