研究者への道

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6. D3の1年

D2までやった実験のほとんどが「外れ」だった私にとって、Fe-Pdの結晶作りは最後の望み、みたいなものだった。その上、D2の春に結婚して子供ができようとしていた私にとって3年でちゃんと学位を取って就職するのは至上命題みたいなものだったはずなのだが、しかし当時の私がそれほど切羽詰まっていたかと言うと、そうでもなかったような気がする。むしろ実験やプログラミングでいろいろやるべきことがあって忙しかったことが、とても楽しかったような思い出しかない。

ともかくそんな感じで半年ぐらい結晶作りに集中して、でき上がった試料を使って阪大でX線回折の実験を行ったのがD3の4月ぐらいだったと思う。目的はマルテンサイト変態転移点の直上での前駆現象の解明、と言うことだったのでそのへんで細かく温度変化を取っていたら、格子定数が微妙に変化していることに気がついたのだった。なんかおかしいな、と思って野田さんに相談したら、それはもしかして何か新しいものを見つけたのかもしれないと言うことで再実験。少なくとも2種類の組成で同じ現象が見られることを確認し、その後は論文を書いたり更に実験を進めたり、と怒濤の日々だった。1ヶ月ぐらいかけて最初の論文を書き、大阪、東京、東海を行ったり来たりしながらD論に向けてのデータ取りをし、最初の論文が8月ごろにpublishされ、その後もデータが無事取れて何とか3年で学位が取れそう、と言うことになったのだった。

実験をいろいろやっていたわりになかなか論文が書けず、やっと初めての論文が書けたのがD3の夏だったわけだが、助手への公募は結構小マメに出していた。初めて話があったのはM2の時で、これは公募ではなく阪大理学部のある研究室から伝手を頼っての話。なぜか私に話が来て、書類は作ったものの「共著の論文も無いのではさすがに取れない」と断られたのが最初だった。

その後、DCの初期に物性研の助手に2度応募。一度は面接にも行ったのだが業績がないのに採用してもらえるわけもない。幸い、奨学金があったし授業料免除も受けていたし、妻の働きとアルバイトとで普通に生活はできていたのだが、それにしても卒業したらどうなるか、と言う展望は全く無かった。特にD3の6月に子供が出来て、妻も会社務めを辞めてしまったため、さすがに来年はどうなるのだろう、と不安はあったに違いない。(実はちゃんと覚えていない。)

おそらく指導教官の山田先生は私以上にその不安を覚えていたはずで、私の実験結果を何とか形にしようと面倒を見てくれたし、また就職先についてもいろいろと考えてくれていた。その最初のものは広島大学の助手の公募。これは確か6月ぐらいが締め切りで10月ごろから赴任して欲しい、と言う条件だったはずだが、どういう次第か3月まで待ってくれる、と言う話になっていた。その他にも京大や東北大からも話が来て、そこの研究室を訪問してセミナーをしたりしていた。さほど目立った仕事をしていたわけでも無かった私にそれほど色々な話が来たのは、今から思えば山田先生があちこち動いてくれていたからに違いない。

ただその裏には、おそらく社会的な条件の変化もあったのではないか、と思う。私が大学院に進学した頃は、博士号を取っても就職できない「オーバードクター」が大きな問題になっていたのだが、ちょうど私が博士課程の頃ぐらいに自然に無くなっていたのだ。それはおそらく、戦後すぐぐらいの時期に職に就いた教官(確か「ポツダム教授」と言われていた)がそのへんで大量に退官してポストが空いたからだ、と言われていた。

そんなこんなで、様々な運に恵まれて広大への就職が内定したのがD3の秋の頃の事だったと思う。山田先生に相談して京大と東北大に断りの連絡を入れ、後は博士論文を書けばいい、と言う感じになり、生まれたばかりの子供を抱きながら論文を書き、そして無事3年でDCを卒業して広大の助手になることができたのだった。

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