研究者への道

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5. 物性研での日々

液晶をテーマとして3年やったものの論文を書くには至らなかった私の事を何とかしようと思ったのか、山田先生は色々とテーマを与えてくれた。全部はちゃんと覚えていないのだが、ラーベス相の積層やヤーンテラー効果などがあったような記憶がある。その中で本格的にやることになったのが、Fe-Pd合金のマルテンサイト変態の実験。山田先生が誰かから単結晶を借りてアメリカのBNLで実験したところ、転移点直上で妙なサテライトピークが出たので本質的なものなのかどうか確かめてみよう、と言うテーマだった。

構造相転移の実験、特に中性子散乱をやるためには大きな単結晶が必要なので、まずは結晶作りからスタート。阪大基礎工の藤田研にいた同期の武藤俊介君のアドバイスをもらいながら、アーク炉で鉄とパラジウムを溶かすところから始めた。そしてそれからはひたすらアーク溶解し、ブリッジマン炉で結晶を育て、エッチングしてラウエを撮って結晶の出来具合をチェックする、と言う日々。良い単結晶を作れればそれだけで一つの仕事になる、と言うほどの世界なので、そう簡単にはできないわけだ。

ついでにその頃はプログラミングにもはまっていて、測定や解析のプログラムを色々と作っていた。特に気合いを入れていたのは、三軸回折計で測定したQ-ω空間のデータを色付きで表示するソフト。きっちりデータが取れれば、分散関係が一目瞭然で分かることになる予定だった。当時六本木にあった物性研で結晶を作るのは1Fの物質開発室、ラウエ写真を撮るのは2Fの共通X線室、そしてプログラミングその他の仕事は5Fの中性子回折部門の部屋だったので、これらを同時並行でやっていた当時は物性研の建物の中を上へ下へと走り回っていた。

因みに当時物性研の中性子回折部門が持っていた装置は、原研の2号炉の炉室内にある2台の3軸回折計だけだった。1つは吉沢さんと一緒に実験した HT-8。(通称「ハチ」。)もう一つはその隣にあったPANSI(通称はそのまま「パンジー」)と言う装置だった。後者は偏極解析ができる上にアナライザやカウンターが大理石の床の上をエアパッドで動く、と言う今に通じる技術を注ぎ込んだマシンだったのだが、惜しかったのは制御系が当時ですら古めかしかった、と言うこと。沖電子の古いコンピューターで動かしていて、立ち上げの時にはまず紙テープからプログラムを読み込む必要があった。

また測定などのコマンドはタイプライターのような器械から入力する必要があったのだが、これが難物。なんせ1文字タイプしたらそのままコンピューターに入力されてしまって、編集はおろかバックスペースも効かないのである。つまり1文字でも入力を間違えたらその時点でそのコマンドはボツで、最悪コンピューターが暴走して全部リセットしなければならない(つまり紙テープの読み込みからやる必要がある)と言う代物だった。それが分かっているから当然入力は慎重にするのだが、実験が夜中になって眠くなってくると当然間違いも増える。さあ測定をかけるぞ、と打ち込んだら間違っていて、また一からやり直しと言うことになったのも一度や二度ではなかった。

とは言え、一度測定を始めてしまえば後は楽なもの。なんせ古い原子炉なので中性子の強度が弱く、非弾性散乱の測定などすると時間がめちゃくちゃかかる。1回のランに1日以上かかる、などと言うこともざらで、3日間放ったらかし、と言うこともあった。夏の間などは暇なので、実験中に海水浴などに行ったりもしたものだった。

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