研究者への道

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4. 大阪から東京へ

博士課程に進学するとき、最も印象が深かったのは「予備審査」というもの。これは博士課程の進学希望者がM2の冬に、一人ずつ半日ぐらいかけて先生方にみっちり絞られる、と言うものだ。こういうのは博士論文の審査のときにやるのは普通だが、修士課程の学生に対して、というのは私が知る限り阪大基礎工だけである。修士論文を書いたか書かないか、という段階の学生は研究者としてはまだまだ半人前だと思うのだが、そういう段階でseniorな研究者が数人でよってたかって苛めたら沈没するのが当たり前。当然のことながら私も散々にやられてかなり落ち込んだものだが、ただこれでいろいろな意味で度胸がついたのも事実だ。阪大では今でもそういうことをやっているのだろうか?

そんなこんなで何とか博士課程に進学し、最初の1年はまた液晶を使っていろいろと遊んでいた。強誘電性液晶はとりあえず終わったと考えて、次に取り組んだのはネマティック液晶。電場をかけたときにできるロールパターンを見ていた記憶があるのだが、これも結局ものにならず。むしろD1の年は、別の意味で激変の年となった。

それは山田先生が、突然東大物性研に移ることになったことだった。私が実質的に指導を受けていたのは野田さんだったし、また藤井先生もいたのでそのまま阪大にいて研究を続けるという選択肢もあったのだが、山田先生から私だけが「東大に行かないか」と言われたのだから仕方がない(?)個人的に東京に行きたい理由もあったので、私は東京に引っ越してD2から始まる2年間、当時六本木にあった東大物性研に「特別研究学生」として通うことになった。

山田先生が行ったのは東大物性研の中性子回折研究部門、と言うところで、文字通り中性子回折を中心に研究しているところだった。私は修士課程からD1までずっと液晶を顕微鏡で見ていたので「中性子回折」と言ってもさっぱり分からず、物性研の助教授だった吉沢さんやお茶大の院生だった有賀(香取)浩子さんの実験の手伝いをしに行った、と言うのが中性子との「なれそめ」だった。その後この手法が自分のメインの実験手法の一つになって行くわけだが、その当時はまさかそんなことになるとは思ってもいなかった。

因みに当時私の机の隣にいたのが当時星埜研の助手だった高重正明さん。ちょうど酸化物超伝導体を発見したばかりのベトノルツとミュラーのところから帰ってきたところで、タッチの差で彼らの第一論文の共著者になり損ねた、と言う話を聞いた。仮にもう少し前にスイスに行っていたら一緒に高温超伝導の発見者になっていたかも知れず、となればノーベル賞も一緒に受賞していたかも知れなかった、とのこと。高重さん自身は別に惜しいような顔もしていなかったのだが、もしそうなっていたら彼の人生もずいぶん違ったものになっていたのかも知れない。

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