研究者への道

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3. 修士課程の頃

私が大学院生だった20年前と言えば、パソコンもまだ8bitの時代。(パソコン、と言わずにマイコンと言うことの方が多かったような記憶がある。)当然インターネットなんて無かったし、e-mailを使っている人もほとんどいなかった。情報を得ようと思ったら雑誌(論文を含む)を見るしか無かったし、誰かとコンタクトしようと思えば電話をするかお手紙を書くしか無かった。学会や研究会だって今みたいに頻繁ではなかったような気がするし、だいたい物理学会以外の学会に学生が出席するなんてことはめったに無かった。

また、前述したように液晶をテーマにして研究室で実験しているのは私だけだったので、研究室の先輩や同級生と議論しながら、と言うわけにもいかない。だから修士時代の研究は、かなりの部分自分の力だけで進めざるをえなかった。液晶を扱うノウハウを名大の折原さんから教えてもらったり、SmC*相のカイラリティに由来する縞模様の一様なドメインを得るために朝山研の北岡さんに巨大な電磁石を貸してもらったり、画像処理専用のコンピュータ(確か東芝の TOSPIXと言うマシンだった)を使うためにイメージセンターと言う施設に行ったり。進みが悪くて野田さんからかなりハッパをかけられたり、あるいは「関西誘電体研究会」と言うところで発表して大失敗したり、ということもあったが、とにかく一応修士論文を書けるだけのネタは揃える事はできた。ただ当時はどのように投稿論文を書き上げるものなのか、その道筋が全く分かっていなかったし、だいたい修士の学生が英語で論文を書く、だなんて思いつきもしなかった。だから結局強誘電性液晶に関する仕事は修論を書いただけで終わり。仮に今、私自身が当時の自分の指導教官だったなら、とにかく論文を書かせる方向で指導したと思うので、それだけが残念ではある。

そんなこんなで何とか修士課程の2年間を無事終えて博士課程に進学することにしたのだが、修士での仕事で大きな手応えを得たわけでも無かったのに、なぜ進学を選んだのか。それも親からの仕送りは打ち切られ、山田先生からは「博士号を取っても就職は無いかも知れないけどそれでも良いのか」と念押しされたのに、である。実を言うとそのへんの事情はちゃんと覚えていないのだが、普通の就職をする気にはあまりなれなくて(だから同級生が会社訪問などをしているのを横目で見ながら何も就職活動をしていなかった)、とにかく物理学者になりたいと言う高いモティベーションがあって、そして当時付きあっていた彼女(後の妻)がそんな思いを応援してくれたからではないか、と思う。またその一方でアルバイトでやっていた塾講師の収入が大きくその仕事もそれなりに面白かったので、いざとなったらそっちの道に進めばいいや、ぐらいに思っていたのかも知れない。ここらへんもまた、今から思えば私の人生にとって大きなターニングポイントだったのである。

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