高松の地形と水攻め

和気正芳 

高松城の水攻めは日本史の中でも有名な合戦の一つではあるが、太閤記などで脚色された史実が伝わるばかりで、実証的に明らかにされている部分が意外に少ない。幅10m高さ7mの築堤が3kmに渡って12日間で作られたなどということは機械力のない時代にはあり得ないし、築堤の遺構もごくわずかしか残っていない。林信男氏の「高松城水攻めの検証」によって、実際の築堤はもっと規模が小さなものであり、それで十分水攻めが成立したことが提唱されるまで高松城の水攻めは謎の史実であったと言わざるをえない。

水攻めと言えば山に囲まれた盆地で、川をせき止めることで城が水没することを想いおこすが、実際に高松の現地で地形を見ると、まったくそのようなものではない。なるほど北は山になっているが東西に足守川が流れ、南は開けそのまま平地が瀬戸内海につながっている。この地で水攻めをやろうと思えは、川と平行に長い築堤を作り、築堤内に人工的に水流を誘導する他なく、まことに水攻めには不都合な地形である。

林信男氏の説は、高松城水攻めが、城の水没を企てたものではなく、城を湖中に孤立させるものであったことに着目し、必要な水深が2m以下ということで、わずかな土地の起伏が利用できることを見出したものである。高松城は元来沼城であり、自然に周りを水で囲まれるようにしてある。はね橋や隘路を使って出撃はしやすいが、攻撃側には沼が多大な困難を与えるしかけだ。しかし、まわりの若干の高地をさらに高くすれば水深が深くなって、出撃路が水没し、城は孤立してしまう。

城郭は戦争の守備側に遮蔽を与え、足場も有利なので、一般的に圧倒的な優位性をもたらすのであるが、篭城戦というのは必ずしも得策ではない。それは軍勢の位置・動静を常に明らかにすることになるからで、神出鬼没の闘いを演じることはできない。野戦兵力は常に移動可能でいつ何処に軍勢が現れるかわからない利点がある。24時間監視され、いつ攻撃を受けるかわからない状態が続けば兵力は疲弊するばかりである。篭城戦には適宜出撃して、敵を攻撃することが必須なのである。だから、出撃路を封鎖してしまえば水攻めはほとんど完成するといっても良い。

問題は高松城周辺の土地の起伏が、そのような水攻めにうまく適合したものであるかどうかということになる。現在の国土地理院発行の二万五千分の一の地図には10mの等高線しか書かれていないのでそういった起伏は見えないが、昭和42年発行の地図には5mの等高線が描かれている。しかし、5mの等高線は城の東側に低地の存在を示しているが、大体東西に伸びて、高松城を盆地に置くことにはなっていない。南が開けた地形であることには変わりがない。

しかしながら、同じ国土地理院発行の昭和46年の土地条件図には等高線以外の平地の測地データが記入されている。このデータは前述の地図とは明らかに矛盾するのであるが、これによれば、高松城位置の高度が5mであるのに対して、築堤が築かれたといわれるあたり原古才に6mの台地があり、西の馬揃も7mの高さがある。このことから、蛙が鼻に300mの堤防を築けば、あとは自然の起伏を利用して高松城を浅い湖中に置くことができる。実用的な水深とするには稼屋と原古才の間にある「水通し」と呼ばれる200mばかりの低地をかさ上げすればよい。

このような地形の推察から林説が成立したのではあるが、実際のこのあたりの地形について詳細は理解されていない。多田土喜夫氏は「備中高松城主清水宗治の戦略」の中で足守川の水流で出来た自然堤防を利用したと述べているが、川自体が低くなって堤防のような土手が出来ても、川が土を盛り上げたりしない。高松に堤防と呼べるようなものは存在しない。地形の議論としては片山和正氏が「高松城址水攻めに関する地理的考察」で5m、6mの等高線を提示しているが、その根拠は明確でない。等高線自体も地図上に手書きで書きこんだ適当なものであり、水通しの存在も考慮されていないなど明らかに不十分である。

本論では、二万五千分の一の地図と土地利用図の測地データからコンピュータによる等高線描画を行ない、地形の解析を試みた。手法としては、有限要素法で計算した弾性体モデルによるものである。弾性範囲内でなるべく入力データ間の矛盾が少なくなる位置に解を見つける。スポンジのようなやわらかい平板を測地データによってつまみあげ、全体の形状を等高線で表すと考えればよい。この手法は褶曲で作られた地形には適合しても主に侵食で出来たと思われる高松の地形には正確には適合しないと考えられる。しかし、なだらかな部分についてはある程度有効性があるだろう。

二万五千分の一の地図から10mの等高線と傾斜部分の5m等高線、そして土地利用図からの測地データを座標入力し、弾性変形解析にかけた。その結果得られたものが添付の図に示したものである。等高線は4mから9mまで20cm毎に描かれている。

この結果から見れば、大まかな起伏として、馬揃から稼屋にかけた高地、原古才の島状高地と高松城東側の低地が浮かび上がる。発掘調査で高松城の高度は今より1m低かったことが明らかなので、5.4mラインまで水を満たせば甲冑をつけての城からの出撃は不可能になる。それには蛙ヶ鼻から原古才への200mに最高3mの築堤、原古才西端から稼屋への水通し部分200mに0.5m以下の土盛りをすれば事足りる。これは当時の土木技術でも十分可能なことだっただろう。地形図から林説が立証されたことになる。これまでの地形図だけでは築堤位置として最短距離は辻から原古才に見えたので築堤遺構が蛙ヶ鼻にあることが疑問であったが、この図からは、もし5.4mの高度を取るなら、蛙ヶ鼻のところが最短距離であることがわかる。

等高線の形状は、周りの山岳部の等高線とも親和し、合理的なものと思われるが、侵食地形としては不自然な所も見られる。一つは高松城周辺の高度が少し高いことで、これは明らかに後世の土盛りによるものと考えられる。低地は池の下から新田の方まで広がっており、その中に高松城があったと考えるべきであろう。もう一つは原古才の台地である。地形としては小山から馬揃、稼屋、原古才と半島のように尾根続きになっているほうが自然である。谷間としては大崎、から新田を通って南東に流れる線と、本村から南に降りてくる線が中島の南で合流する。侵食地形はそのような谷と尾根を作る水の流れの中で形成されるからである。そう考えると水通し部分は後世人工的に作られた低地なのではないかと思われる。その場合、水攻めの頃には高松城は6m以下の盆地となり、梅雨時に陣を張った包囲軍として水攻めの発想は得られやすいものとなるし、工事としても200mの築堤を一つ作るだけで事足りる。

「水通し」の低地が水攻めの時には存在せず、後に人工的に作られたものであるとする根拠は、この土地の農地が干拓により作られたことに拠るものである。高松には和氣六右衛門が入植して耕地を干拓で造成し、寛永年間には200石以上になったことが伝えられている。広大な沼地の干拓には水路を作って水はけを良くすることが必要である。これには原古才東側の谷間の築堤を壊しただけではだけでは十分ではない。水攻め以前の状態に戻しただけではなく、新たに耕地を作る方策として、足守川の低地が入り込んでいる位置、稼屋と原古才の間を人工的に低くして余分な水を通してしまう水通しが考えられたのではないだろうか。和氣氏による干拓の詳細、あるいは水通しの発掘調査による研究が進めばこのあたりのことがさらに明らかになるにちがいない。

[参考文献]

林信男「高松城水攻めの検証」高松城址保興会(1999)

片山和正「高松城址水攻めに関する地理的考察」香川地理学会会報. 27号p.45-56(2007)

多田土喜夫「備中高松城主清水宗治の戦略」吉備人出版(2005)

仙田 実「和気清麻呂」日本文教出版(1997)